文章作法の話
2004年2月14日 本当の犬の話をしようあるいは、いっそのこと僕が何もしゃべれなければいいんだよね。あるいは、たとえばさ僕が今ここに居なくて、テントの中がハービーと爺さんだけだったら、爺さんはハービーに名前を聞くだろうか。まあ聞くのだろう。そんな気がする。
それでもハービーは名前聞かれてさ、「俺はハーベストってんだ」なんて下らない台詞は吐かないって思うんだ。もっと気の利いたこというに決まってるだろ?ワンにしろガルルルにしろウウウにしろさ。
そのとき僕に足りなかったのはそういうことさ。
つまり必要なときに必要なものが無いっていうのは想像力が足りないってことなんだ。
僕はちょっと考えれば、言葉をしゃべれない人間にだってなれたはずなんだよ。
ただし、ナイフに関して言えばとても自分を抑えられなかったし、お爺さんに「これ触ってもいい?」って聞いたし実際に触った。
爺さんは僕に好きなだけナイフを触らせたし、ハービーの奴も好きなだけ水滴を撒き散らしたし、これだからテントって最高なんだよね。
僕の話はこれだけなんだ。
ただ爺さんのテントでナイフを好きなだけ触らせてもらったってことだけさ。
これで終わりなんだ。
文章作法の先生がこれで終われって言ったからね。
2.文章作法の話
大学1年のときに文章作法という講義があった。
これは演習と講義がくっついたような授業なんだ。
名前は忘れたけど素敵な教授だった。
なんたって凄い文章書くんだ。ひとつしか読んでないけど。
寺山修二の引用が入ってる文章だった気がする。
それにね、とっても人間的なんだよ。友達になれそうな感じがするんだ。
毎週講義があって学生に何か文章を書かせるんだけど、ある週にある学生が心無い文章を書いたんだ。つまりね、先生を批判するようなことを書いたわけさ。
そしたら次の週に先生が泣きそうになってるんだよ。講義どころじゃないのさ。
きっとその文章についてああでもないこうでもないって一週間考えたんだ、彼は。
つまりひとりの学生のひとつの文章に真剣に傷つくことにしたんだ。真正面からね。
そういう教授だったから友達になれそうって思ったんだ。
でもそんなことがあって、僕はその次から最後までの講義は欠席した。
だってね、もう僕には何も書くべきものが無くなったんだよ。教授にたいしてね。
もう何一つ書けなくなったんだ。
僕がこの講義を気に入った理由がもうひとつあるんだが、それは初めの授業で起こった。
「自分とは何か」っていうテーマを出されて10分くらいで全員文章を書かされたんだけど、僕の文章が真っ先に採用されたんだ。
どういうことかっていうと、この講義にはまず200人以上の学生が集まるんだ。
一番でっかい教室に入りきれないくらいにね。
文学部の講義の中で、一番人気があるんだよ、きっと。
初めての講義のときに教授が驚いたんだ。教室に入りきれないくらいのあまりに多い人数にね。それで、キャンパス内で一番でっかい教室にみんなでぞろぞろ移動したわけさ。
それでなんとか全員教室に入りきれたんだ。
それから僕らは「自分とは何か」って題で好きなように書けって言われた。
確か10分くらいで400字前後くらいの文章を書いたかな、みんな。
それを教授が集める。200人分を。
次の週の講義までに教授が全部読んで、秀作を抜粋してタイプに打って一枚のプリントを作って、次の講義のテキストにするんだ。
ものすごく大変な作業なんだよ。誰も教授を批判するべきじゃないんだ、ほんとに。
それで、次の週になって配られたプリントを見てみると僕の書いた文章がそこにあったんだ。うれしいよね。
それで僕の書いた文章で講義が進むわけなんだ。200人のね。
良かったらそのとき僕が書いた文を読んでみてほしい。
『自分とは何か』
自分について語るというのは、自分にとって身を削るという意味では、非常に辛いところである。
これが自己紹介のように誰か相手が明確に居て、目的があって語り掛けるという場合には、その目的に即した都合の良い点を答えたり、または、自分を装ってみたりということが出来るのであるが、
または全く自分自身のために文章を書く、自分を見なおし、見つめるための文章であれば、それが日記のようなものであれば、内面を掘り下げていくのに身を削る思いなどしないはずである。
しかし、全く書けないわけではなく、別に「正直な自分」「自分に正直に書く」必要はないわけで、創作であれば、どんな風にでも書くことはできる。
それを「正直」と偽らない限り、騙すことにはならないわけであるし、全くの創作に対しても、読み手に自分が伝わることがある。
読み手の「あなたは何者か?」という姿勢が必要とされるが、たとえば、小説を読んで小説家を知るということがある。
もしかすると、小説にこそ、小説家の本当の姿、内面が読み取れるのかもしれない、と私は考えている。
よって、「私は何者か?」についての命題には正直に作り話を始めたいと思う。
私は木の上にずっと坐っていたのだが、別に木ではないし、木になろうとしてもなかなかなれなかったものである。
木そのものでないというのは非常に辛いもので、いつもいつも木の枝に(坐っている木の枝に)自分が負担をかけているように思っていたのだが、そうかといって、自分から動こうとも自分が木の上に立ったら、枝が折れてしまうんじゃないかと考え、自分が飛び降りたら、今度は自分が折れてしまうんじゃないかと考え、なかなか動けないで、始終同じことを考えていたように思う。
始めは木のことを考え、地面のことを考え、空のことを考え、結局自分のことを考えた。
あるとき、夜の女王がふとしたひょうしに息を吹きかけると私はこのキャンパスに居ることに気づいた。以上です。
この文章をみんなの前で読まれたとき僕は真っ赤になっていたんだ。
文章ってのはみんなの前で読むものじゃないよね。
少なくとも僕の書いたものはみんなの前で読むようなものじゃないんだ。
たとえば宮沢賢治がみんなの前で『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』を読まれたらきっと同じように真っ赤になったはずだよ。僕はこの話が好きだけど、ちゃんとひとりでこっそり読んでるんだ。
でも、宮沢賢治ってみんなの前で読んでも大丈夫な奴も一杯書いて持ってるんだ。『注文の多い料理店』とか『やまなし』とかさ。ずるいよね。そういうところがさ。
それで、教授は僕の文章について一言だけ褒めてくれた。なんていってたかは内緒だけどね。
そのあと、みんなにも分かるように僕の文章を噛み砕いて説明したんだ。
なんせ僕の文章ときたら分かりにくくて有名だからさ。まず誤字が多いんだ。
塾で国語を教えてたくせにね。
それから、木の上に坐っていた話について「禅のよーな話だ」って言ったんだ。(これ教授の感想だよね。)
そして「これだけでも良かったんだけどね」って言った。
つまり、禅のよーな話の部分だけでも良かったんだけどね。って意味なんだよ。
前半はいらないっていうんだ。
いいかい?「自分とは何か」ってテーマを出されて僕が身を削る思いをした、って部分はいらないっていうんだ。
うん、そのときはなるほどって思ったんだけどね。いらないかもって。
たとえばさ、『スラムダンク』って漫画あるじゃない。
ある試合中ゴリが不調のとき、ボス猿がいきなりコートに来て大根と包丁を取り出してカツラ剥きをやり始める。
そこでなんの説明もしないんだ、彼は。
漫画的には仙道なんかがカツラ剥きの意味を説明してるけどね。
本人はなんにもいわないんだよ。全くね。
つまりね、「…
それでもハービーは名前聞かれてさ、「俺はハーベストってんだ」なんて下らない台詞は吐かないって思うんだ。もっと気の利いたこというに決まってるだろ?ワンにしろガルルルにしろウウウにしろさ。
そのとき僕に足りなかったのはそういうことさ。
つまり必要なときに必要なものが無いっていうのは想像力が足りないってことなんだ。
僕はちょっと考えれば、言葉をしゃべれない人間にだってなれたはずなんだよ。
ただし、ナイフに関して言えばとても自分を抑えられなかったし、お爺さんに「これ触ってもいい?」って聞いたし実際に触った。
爺さんは僕に好きなだけナイフを触らせたし、ハービーの奴も好きなだけ水滴を撒き散らしたし、これだからテントって最高なんだよね。
僕の話はこれだけなんだ。
ただ爺さんのテントでナイフを好きなだけ触らせてもらったってことだけさ。
これで終わりなんだ。
文章作法の先生がこれで終われって言ったからね。
2.文章作法の話
大学1年のときに文章作法という講義があった。
これは演習と講義がくっついたような授業なんだ。
名前は忘れたけど素敵な教授だった。
なんたって凄い文章書くんだ。ひとつしか読んでないけど。
寺山修二の引用が入ってる文章だった気がする。
それにね、とっても人間的なんだよ。友達になれそうな感じがするんだ。
毎週講義があって学生に何か文章を書かせるんだけど、ある週にある学生が心無い文章を書いたんだ。つまりね、先生を批判するようなことを書いたわけさ。
そしたら次の週に先生が泣きそうになってるんだよ。講義どころじゃないのさ。
きっとその文章についてああでもないこうでもないって一週間考えたんだ、彼は。
つまりひとりの学生のひとつの文章に真剣に傷つくことにしたんだ。真正面からね。
そういう教授だったから友達になれそうって思ったんだ。
でもそんなことがあって、僕はその次から最後までの講義は欠席した。
だってね、もう僕には何も書くべきものが無くなったんだよ。教授にたいしてね。
もう何一つ書けなくなったんだ。
僕がこの講義を気に入った理由がもうひとつあるんだが、それは初めの授業で起こった。
「自分とは何か」っていうテーマを出されて10分くらいで全員文章を書かされたんだけど、僕の文章が真っ先に採用されたんだ。
どういうことかっていうと、この講義にはまず200人以上の学生が集まるんだ。
一番でっかい教室に入りきれないくらいにね。
文学部の講義の中で、一番人気があるんだよ、きっと。
初めての講義のときに教授が驚いたんだ。教室に入りきれないくらいのあまりに多い人数にね。それで、キャンパス内で一番でっかい教室にみんなでぞろぞろ移動したわけさ。
それでなんとか全員教室に入りきれたんだ。
それから僕らは「自分とは何か」って題で好きなように書けって言われた。
確か10分くらいで400字前後くらいの文章を書いたかな、みんな。
それを教授が集める。200人分を。
次の週の講義までに教授が全部読んで、秀作を抜粋してタイプに打って一枚のプリントを作って、次の講義のテキストにするんだ。
ものすごく大変な作業なんだよ。誰も教授を批判するべきじゃないんだ、ほんとに。
それで、次の週になって配られたプリントを見てみると僕の書いた文章がそこにあったんだ。うれしいよね。
それで僕の書いた文章で講義が進むわけなんだ。200人のね。
良かったらそのとき僕が書いた文を読んでみてほしい。
『自分とは何か』
自分について語るというのは、自分にとって身を削るという意味では、非常に辛いところである。
これが自己紹介のように誰か相手が明確に居て、目的があって語り掛けるという場合には、その目的に即した都合の良い点を答えたり、または、自分を装ってみたりということが出来るのであるが、
または全く自分自身のために文章を書く、自分を見なおし、見つめるための文章であれば、それが日記のようなものであれば、内面を掘り下げていくのに身を削る思いなどしないはずである。
しかし、全く書けないわけではなく、別に「正直な自分」「自分に正直に書く」必要はないわけで、創作であれば、どんな風にでも書くことはできる。
それを「正直」と偽らない限り、騙すことにはならないわけであるし、全くの創作に対しても、読み手に自分が伝わることがある。
読み手の「あなたは何者か?」という姿勢が必要とされるが、たとえば、小説を読んで小説家を知るということがある。
もしかすると、小説にこそ、小説家の本当の姿、内面が読み取れるのかもしれない、と私は考えている。
よって、「私は何者か?」についての命題には正直に作り話を始めたいと思う。
私は木の上にずっと坐っていたのだが、別に木ではないし、木になろうとしてもなかなかなれなかったものである。
木そのものでないというのは非常に辛いもので、いつもいつも木の枝に(坐っている木の枝に)自分が負担をかけているように思っていたのだが、そうかといって、自分から動こうとも自分が木の上に立ったら、枝が折れてしまうんじゃないかと考え、自分が飛び降りたら、今度は自分が折れてしまうんじゃないかと考え、なかなか動けないで、始終同じことを考えていたように思う。
始めは木のことを考え、地面のことを考え、空のことを考え、結局自分のことを考えた。
あるとき、夜の女王がふとしたひょうしに息を吹きかけると私はこのキャンパスに居ることに気づいた。以上です。
この文章をみんなの前で読まれたとき僕は真っ赤になっていたんだ。
文章ってのはみんなの前で読むものじゃないよね。
少なくとも僕の書いたものはみんなの前で読むようなものじゃないんだ。
たとえば宮沢賢治がみんなの前で『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』を読まれたらきっと同じように真っ赤になったはずだよ。僕はこの話が好きだけど、ちゃんとひとりでこっそり読んでるんだ。
でも、宮沢賢治ってみんなの前で読んでも大丈夫な奴も一杯書いて持ってるんだ。『注文の多い料理店』とか『やまなし』とかさ。ずるいよね。そういうところがさ。
それで、教授は僕の文章について一言だけ褒めてくれた。なんていってたかは内緒だけどね。
そのあと、みんなにも分かるように僕の文章を噛み砕いて説明したんだ。
なんせ僕の文章ときたら分かりにくくて有名だからさ。まず誤字が多いんだ。
塾で国語を教えてたくせにね。
それから、木の上に坐っていた話について「禅のよーな話だ」って言ったんだ。(これ教授の感想だよね。)
そして「これだけでも良かったんだけどね」って言った。
つまり、禅のよーな話の部分だけでも良かったんだけどね。って意味なんだよ。
前半はいらないっていうんだ。
いいかい?「自分とは何か」ってテーマを出されて僕が身を削る思いをした、って部分はいらないっていうんだ。
うん、そのときはなるほどって思ったんだけどね。いらないかもって。
たとえばさ、『スラムダンク』って漫画あるじゃない。
ある試合中ゴリが不調のとき、ボス猿がいきなりコートに来て大根と包丁を取り出してカツラ剥きをやり始める。
そこでなんの説明もしないんだ、彼は。
漫画的には仙道なんかがカツラ剥きの意味を説明してるけどね。
本人はなんにもいわないんだよ。全くね。
つまりね、「…
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