とにかく僕にとって、うどんのおいしさを理解する為に毎日毎食かかさずおかゆを食べなければならなかったのだし、叔母さんにわがままを言わなければならなかったんだ。

できれば叔母さんにはわがままを言いたくなかったんだよ。ほんとはね。
それがどんな小さなわがままだったとしてもね。
叔母さんはとってもよくしてくれたからね。
例えば毎日おかゆを作ってくれたことや、看病してくれたことや、知らない人についてっちゃだめよとしつこいくらいに注意してくれたことだって、あるいはなんか忘れてしまったけど些細なことで怒られたときでも、とにかく叔母さんは僕のためによかれと思ってやってくれているんだよ、それはもうとてつもなく確かなことなんだ。

それはね、たとえばここから遠く離れた太陽の国エジプトのあのスフィンクスがこれから先もどんどん崩れていって、それをもう誰も止められないってことくらいに確かなことなんだよね。
ほんの少ぉしずつだけど、どんどんどんどん崩れていくんだ。
もうスフィンクスには何も守るべきものがないんだよ。
かつてのピラミッドには既に王の遺体はなくなっているし、きっとその所為なんだよね。
王の遺体はいつか誰かが持ち去ってしまったんだ。そこに侵入した誰かがね。
彼らは闇の中を明るく照らして、ピラミッドの呪いを打ち消したかもしれないし、また彼らは王の棺をこじ開けても何も罰を受けなかったのかもしれない。
でも、おかげでスフィンクスは崩れていくんだ。少しずつね。

うまく言えないけど、叔母さんはとても現実的な人なんだ。
それが悪いわけじゃないし、それでいいんだと思う。
ただ、僕はわがまま言うどころか、本当は話すこともちゃんとできないでいるんだ。
つまり、スフィンクスの話なんてとてもできないってことさ。

僕にとってのスフィンクスは闇の奥の恐怖とか、悪いことをしたら罰を与える呪いとか、そんなものに直結してるんだ。
だからもし僕が今寝てるベッドの横にスフィンクスがじっと横たわっていたら、僕は何も言わずおかゆを食べ続けていたはずだよ。ずっとね。
夜はあいかわらず怖いはずだし、早くトイレに行かなかったことを必死に後悔するだろうし、近所のバイパスの道路の下のトンネルには近づかないようにしただろうし、暗闇の中では必死に耳をそばだてたさ。

僕はそういう風にもっといろいろなものに怯えていたのだろうが、それは誓って言うけど悪いことじゃないんだ。
だってね、暗闇の中でこそ五感は研ぎ澄まされていくんだ。
そして、もっと注意すべきことを注意できるはずなんだよね。

そういえば、寝込んでる何日かの間、従兄弟が1回だけ僕の寝室に来たんだ。こっそりと。
従兄弟が僕に近づくことは禁止されてたからね。風邪がうつるといけないからって叔母さんにいわれているんだよ、きっと。

叔母さんは、前に従兄弟がインフルエンザで寝込んでいたときも僕に決して従兄弟と会わせなかったんだ。
同じ空気を吸わなければ病気はうつらないよって言ったんだ、そのとき。

そういう面ではとても現実的なんだよ、叔母さんは。

従兄弟が僕の部屋にこっそりきて、それから何かしていったことは覚えてるんだけど、何をしてどういうことを話したのか覚えてないんだよね。まだ熱にうなされてる頃だったし、意識は朦朧、咳はごぼごぼ、汗はだくだくって感じだったんだ。

それから、叔母さんにうどんをねだった頃にはちゃんと元気になりつつあったんだけど、実はね、あの会話は嘘なんだ。
「おばさん、悪いんだけどね、おかゆって飽きちゃったんだ。だから普通のご飯じゃあ駄目かなあ。ほんとはね、普通のご飯も硬めに炊いたほうが好きなんだよね。今まで言わなかったけど。」
って書いたけど、本当は全然違ったんだ。

全然言えなかったんだ、そんな風には。

君なら分かるだろう?僕がこんな風に話せないことなんてさ。
そりゃこんな風にうまく言えたらどんなにいいだろうって思うさ、僕だって。
そりゃいつもそう思うんだ。
どんなに素敵だろうと思うんだ。

でも僕はそのとき夕飯のおかゆを前に何も言えなかったんだ。
一口も食べれなかったし、何もしゃべれなかったし、指一本動かせなかったんだよ。
おかゆの前でどうしたらいいか分からなかったし、誰も教えてくれなかったんだ。

教えてくれたのは叔母さんだった。

叔母さんは、どうしたの?って僕に聞いた。
それから、食べたくないの?とか、気持ち悪いの?とか僕に聞いたんだ。
後にする?とか
横になる?とか
背中さすろうか?とか
水飲もっか、とか
そのたびに僕は首をふって、それから次も首をふって、次も首をふって、
そしたら叔母さんは、おかゆは嫌なの?って聞いた。

おかゆは嫌なの?って聞かれて、僕はうんって言ったんだ。

それですぐに叔母さんは階下に下りていってうどんを茹でたんだ。うどんを茹でて僕に持ってきたんだよ。

僕は本当の本当はこういう風にわがままを言ったし、だけど、君には分かってほしいんだけど、こういう風にわがままを言いたくなかったんだ、ほんとに。
いつもね、何も言わないほうがよっぽどいいって思ってるんだよ。後で思うんだ。

それともね、僕の部屋のどこかにスフィンクスが居て、こうじっと僕を見据えていたとしたら、僕は黙って、ちゃんと毎日でもおかゆを食べれたんだと思う。きっとね。

叔母さんにわがままも言わないし、ちゃんと病人の優等生だし、誰も傷つかないで済むんだ。

ところで椎名誠の本に「さらば国分寺書店のオババ」っていう本があるけど、あのオババって主人公には一言も言葉を発してないんだ。意外だよね。

あのね、よく聞いてね。
僕はね、あの日ハービーと一緒に公園に行った話を今まで誰にも話したことはなかったんだ。公園で何をしたかもね。そうすることで誰も傷つかないで済むと思ってたからなんだ。

順番に話すとね、
あのね
朝4時か、その辺りに起こされたんだ。叔母さんに。

おかゆが嫌だって言った次の日の朝の4時ごろのことなんだ。
まだ暗かった。
僕はベッドに寝てて、部屋のカーテンはぴったり締め切っていた。それでも分かるんだ。外がまだ暗いってね。

時計も見なかったけどまだ4時か4時半くらいだってこともちゃんと分かった。
僕はそういうことが得意なんだよ。時計を見ないで時間を当てちゃうってことがね。

叔母さんは起こして悪いんだけどちょっと一緒に来てほしいの、って言った。それから僕の着替えを手伝ってくれて、僕のコートを左腕にかかえて、ドアをあけて、さあ行きましょうって言った。

僕と叔母さんは手袋なんかをはめながら階下に降りて、リビングの電気を消して靴を履いて外に出た。

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